July 01, 2011

* 書店でカントの『純粋理性批判』を眺めた話

今日は久々に、お気に入りの書店をのぞきました。品ぞろえがマニアックというか、奥が深くて好きなお店です。特にこれが欲しい、という本があるわけではなかったのですが、文庫サイズの本で面白そうなものがないか、探していました。

積読に文庫本がなくなったので、「電車の移動中は文庫本のほうがいいのよね〜」という理由からです。ハードカバーの積読本が、文字通り積まれたままなのを、解消しなければいけないのですが。結局、そういう視点で見ているからか、「これは!」と思うような本は見つかりませんでした。

そんななかで、イマヌエル・カントの『純粋理性批判』を見かけました。上中下と、3巻に分かれています。それでも1巻1巻は十分厚いものです。思わず手にとってぱらぱらとページをめくってみたのですが、分厚い挙句に二段組みという、読む者を非常に選ぶ構成になっていました……。

しかも、書いてある文章が非常に難解です。これは自分がドイツ語に接するときに感じるのですが、「書き言葉(専門的な内容の文章)」では、1文を長く書く傾向があるようです。学生時代に英文和訳でやるような、「後半のこの"that"から始まる節が、この前の名詞にかかっていて、さらにこれがthat節内のこの名詞にかかって……」というような入れ子の構造になっていることが、非常に多いです。自分に近代哲学の知識が乏しいこともありますが、文字通り「ちんぷんかんぷん」でした。

日本語訳で読むのと原書で読むのと、どちらが私にとって理解しやすいのだろうか、と考えてしまったほどです。そして、結論は出ています。「どっちも難しい」に決まっています……。

いきなりこういうものを読むというのは難しいですが、少しずつ、「考える」本を読んでいきたいなあ、と思いました。で、書店で見つけて、「そういえばこれも、長らく『積読』だ」という本を思い出しました。

西洋古代・中世哲学史 (平凡社ライブラリー)
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そんなに中世ヨーロッパが好きなのね……と、自分に感心してしまいます。どこかにしまいこんでしまっているはずなので、発掘しなければなりません。

実は、「キリスト教」に興味はあるのですが、「現代を生きる私たちの信仰」としてのキリスト教ではなく、「中世の人々の暮らしや考え方に影響を与える信仰」としてのキリスト教に興味があるのです。なので、教義を学ぼうとか、洗礼を受けようとは、思わないみたいです。

リーゼンフーバー先生のお名前で検索したら、とても興味のある内容の本がほかにも見つかりました。この調子で、積読が増えてしまいそうです。

ここで話をカントに戻します。カントは、プロイセンのケーニヒスベルク(現在のカリーニングラート)で生まれ育ち、墓もあります。高校時代の倫理の授業で、墓碑銘にもなっているという我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまないという言葉を知り、とても美しいと思いました。

私が倫理で学んだ当時のカリーニングラートはソ連領で、重要な軍港があり、とても外国人が観光に行ける場所ではありませんでした。でも今は変化しているようなので、観光で行けるかもしれません。なんだか、人生の楽しみが増えた感じです。

(イマヌエル・カントについては、Wikipediaの記述を参考にしました)

uriel_archangel at 23:56 | 日々の記録 
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1. ドイツ観念論(ドイツ理想主義)  [ magnoria ]   July 11, 2011 22:30
 高校時代の倫社の授業の資料を読み返していて、やっとカントからヘーゲルの時代のドイツの哲学の特徴が理解できました。

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