平城宮跡
April 19, 2012
2012年関西旅行記その4・平城宮跡と大極殿編
あれこれ見学してから、資料館の入っている建物を出ました。資料館(資料館というより奈良文化財研究所、だったかな)のミュージアムグッズは、古都の風情を感じるものがありました。が、衝動買いはしないように頑張ったので(このときは……)、購入しませんでした。興味のある方は、ガイドブックなどで紹介されているものもあるので、ぜひ見てみてください。
平城京は、平安京遷都後は、あっという間に田畑になってしまったようです。現在の平城宮跡は、広大な草原という風情です。松尾芭蕉ではありませんが、それこそ「みやこびとが夢のあと」という感じです。写真には撮影しませんでしたが、少し離れた場所を(平城宮跡を横切って)近鉄が走っています。
しばらく歩くと、大極殿がこんなふうに見えます。せっかくだからこっちのほうに行ってみよう、ということで歩いたのですが、実に広大でした。
ズームで撮影したので意外と大きく写っている朱雀門は、「あそこまでとても歩いて行く気にはならない」という感じで見えました。
こういう比較対象がない写真だと分かりにくいですが、この大極殿、大きいですよ。軒に、風鈴ではないですが金属の飾りがあって、それが風になびいて鳴っていたのが印象的でした。気分だけは天平人です。
もうお昼になっているし、そろそろ移動しようか……ということで、大極殿の方向に向かって歩いていたところ、大極殿の内部に入れることが分かりました。せっかくなので(入場無料だし)入ってみました。
きちんと説明を読んだわけではないのですが、天皇陛下(この当時はなんと呼ばれていたのでしょう……大王は古いのかな?)がお座りになった場所だと思います。玉座、でしょうか。
天井の装飾が興味深かったので撮影しました。格子のひとつひとつに、花が描かれていました。これは想像でしょうか? 現代の画家によって四方の守り神も描かれていて(玄武や朱雀など)、雰囲気がありました。
これは、復元した大極殿に使われた鴟尾と同じサイズのものだと思います。奈良文化財研究所で、他の鴟尾を参考に、当時の姿を考えたもののようです。相変わらず比較対象を入れていませんが……。ちょっと検索したところ、高さは約2メートルだそうです。
ここで体力的にも限界になり、大和西大寺駅に向かっててくてくと歩き、UNIQLOの入ったショッピングセンター(ならファミリー)を目指します。お昼を食べるのにちょうどいいレストランもあるでしょう、ということで。
どういうレストランがあるのか見ていたら、お台場のアクアシティに行くと必ずと言っていいほど食べる「鶴橋風月」がありました。息子に「鶴橋風月があるよ」と言ったら、「僕、ここがいい!」と即決です。
家族がUNIQLOに行っている間に、さっさとお店に入ります。
だいぶ前から1人1枚です。ですが、以前はみんなでシェアしていたサイドメニューも、最近は息子が1人で食べるようになりました。
「UNIQLOで買い物をして、鶴橋風月でお好み焼きを食べる」というのは、東京でもできるし、大阪でも、奈良でもできるのだなあ、と思いました(他の都市でもできるかと思いますが)。どこも均質化しているというのを実感します。
満足したところで大和西大寺駅に戻り、コインロッカーから荷物を回収して、近鉄奈良駅に向かいます。
平城宮跡で何度も見ていた電車に乗りました。途中で見えたイトーヨーカドーは、私がン十年前に高校の修学旅行で見たときは、ガイドさんが「長屋王の屋敷跡が発見されたのですが、ここは奈良そごうになります」と言っていた場所でした。あれからバブルもはじけ、いろいろありました。
我が家では「そごうがダメになったのは長屋王の祟りだ」ということになっています(笑)
まだ2日目が終わりません……。
平城京は、平安京遷都後は、あっという間に田畑になってしまったようです。現在の平城宮跡は、広大な草原という風情です。松尾芭蕉ではありませんが、それこそ「みやこびとが夢のあと」という感じです。写真には撮影しませんでしたが、少し離れた場所を(平城宮跡を横切って)近鉄が走っています。
しばらく歩くと、大極殿がこんなふうに見えます。せっかくだからこっちのほうに行ってみよう、ということで歩いたのですが、実に広大でした。
ズームで撮影したので意外と大きく写っている朱雀門は、「あそこまでとても歩いて行く気にはならない」という感じで見えました。
こういう比較対象がない写真だと分かりにくいですが、この大極殿、大きいですよ。軒に、風鈴ではないですが金属の飾りがあって、それが風になびいて鳴っていたのが印象的でした。気分だけは天平人です。
もうお昼になっているし、そろそろ移動しようか……ということで、大極殿の方向に向かって歩いていたところ、大極殿の内部に入れることが分かりました。せっかくなので(入場無料だし)入ってみました。
きちんと説明を読んだわけではないのですが、天皇陛下(この当時はなんと呼ばれていたのでしょう……大王は古いのかな?)がお座りになった場所だと思います。玉座、でしょうか。
天井の装飾が興味深かったので撮影しました。格子のひとつひとつに、花が描かれていました。これは想像でしょうか? 現代の画家によって四方の守り神も描かれていて(玄武や朱雀など)、雰囲気がありました。
これは、復元した大極殿に使われた鴟尾と同じサイズのものだと思います。奈良文化財研究所で、他の鴟尾を参考に、当時の姿を考えたもののようです。相変わらず比較対象を入れていませんが……。ちょっと検索したところ、高さは約2メートルだそうです。
ここで体力的にも限界になり、大和西大寺駅に向かっててくてくと歩き、UNIQLOの入ったショッピングセンター(ならファミリー)を目指します。お昼を食べるのにちょうどいいレストランもあるでしょう、ということで。
どういうレストランがあるのか見ていたら、お台場のアクアシティに行くと必ずと言っていいほど食べる「鶴橋風月」がありました。息子に「鶴橋風月があるよ」と言ったら、「僕、ここがいい!」と即決です。
家族がUNIQLOに行っている間に、さっさとお店に入ります。
だいぶ前から1人1枚です。ですが、以前はみんなでシェアしていたサイドメニューも、最近は息子が1人で食べるようになりました。
「UNIQLOで買い物をして、鶴橋風月でお好み焼きを食べる」というのは、東京でもできるし、大阪でも、奈良でもできるのだなあ、と思いました(他の都市でもできるかと思いますが)。どこも均質化しているというのを実感します。
満足したところで大和西大寺駅に戻り、コインロッカーから荷物を回収して、近鉄奈良駅に向かいます。
平城宮跡で何度も見ていた電車に乗りました。途中で見えたイトーヨーカドーは、私がン十年前に高校の修学旅行で見たときは、ガイドさんが「長屋王の屋敷跡が発見されたのですが、ここは奈良そごうになります」と言っていた場所でした。あれからバブルもはじけ、いろいろありました。
我が家では「そごうがダメになったのは長屋王の祟りだ」ということになっています(笑)
まだ2日目が終わりません……。
April 16, 2012
2012年関西旅行記その3・平城宮跡資料館編
奈良西大寺駅で、大きな荷物をコインロッカーに預けました。てくてく歩いて平城宮跡に向かいます。
まず最初に、お手洗いが使えるし……ということで入った平城宮跡資料館で、予想以上に長居をすることになりました。無料で入れるのですが、予想以上に内容が充実していました。
思わず写真を撮影してしまいました。
これは、仕事をする部屋ですね。手前(真ん中右端)に見えるのは、碁盤です。
手前は琴(筝?)かな〜、と思うのですが、撮影した本人としては、メインはその奥の双六です。今のバックギャモンですね。
食事の再現をしています。当時は今のように保存方法が発達しているわけではないですから、私たちから見るとかなりびっくりするようなもの(鮮度や味付けの面で)を食べていたのではないかと思います。
私が一番気に入ったのは、木簡(発掘された木簡のレプリカ)の展示です。お役所は書類が大切! というのは今も昔も変わらないようで、たくさん出てくるのですね。その中にある似顔絵や落書きが、とてもいい感じなのです。「昔も今も、絵心って変わらないのねえ」という感じです。
なんだか、1300年ちかく前の人と言っても、私たちとあまり変わらない感じで、親しみが持てますよね。
右奥の絵は、兄が修学旅行で焼き物に描いた顔を思い出します……(笑)
こういう展示以外の「考古科学コーナー」も、さすが最先端! という感じで興味深かったです。「発掘速報展」では「発掘を体験してみよう!」みたいなコーナーもあり、夢中になった息子はものさしを持って座り込み、熱心に測っていました。「どの遺構がどの順番に作られたかを考える」というのもあり、考古学って科学なんだなあ、と実感しました。
特別展では、東日本大震災での文化財レスキューについても紹介していました。資料をなるべく傷めずに元の状態に戻すためにフリーズドライが使われているなど、興味深かったです。各地から専門家が文化財レスキューに向かうものの、優先順位の問題もあり、なかなか難しいようです。
文化財レスキューを特集したテレビ番組が流れていたのですが、そこで印象的だったのは、「貝塚遺跡はほとんどが津波の被害を受けていなかった」ということです。昔の人たちは、「大津波が到達しないところ」を選んで住んでいたのですね。
伊東乾氏の「なぜ津波で洗われる地域に家を作ったのか? あれから1年、正しく怖がる放射能【3】」にもあったのですが、三陸地域で人が平地に暮らすようになったのは、高度成長期のようです。全部の地域でこれが当てはまるかは分かりませんが……。
――と、あれこれ書きましたが、平城宮跡はまだまだ続きます(汗)
まず最初に、お手洗いが使えるし……ということで入った平城宮跡資料館で、予想以上に長居をすることになりました。無料で入れるのですが、予想以上に内容が充実していました。
思わず写真を撮影してしまいました。
これは、仕事をする部屋ですね。手前(真ん中右端)に見えるのは、碁盤です。
手前は琴(筝?)かな〜、と思うのですが、撮影した本人としては、メインはその奥の双六です。今のバックギャモンですね。
食事の再現をしています。当時は今のように保存方法が発達しているわけではないですから、私たちから見るとかなりびっくりするようなもの(鮮度や味付けの面で)を食べていたのではないかと思います。
私が一番気に入ったのは、木簡(発掘された木簡のレプリカ)の展示です。お役所は書類が大切! というのは今も昔も変わらないようで、たくさん出てくるのですね。その中にある似顔絵や落書きが、とてもいい感じなのです。「昔も今も、絵心って変わらないのねえ」という感じです。
なんだか、1300年ちかく前の人と言っても、私たちとあまり変わらない感じで、親しみが持てますよね。
右奥の絵は、兄が修学旅行で焼き物に描いた顔を思い出します……(笑)
こういう展示以外の「考古科学コーナー」も、さすが最先端! という感じで興味深かったです。「発掘速報展」では「発掘を体験してみよう!」みたいなコーナーもあり、夢中になった息子はものさしを持って座り込み、熱心に測っていました。「どの遺構がどの順番に作られたかを考える」というのもあり、考古学って科学なんだなあ、と実感しました。
特別展では、東日本大震災での文化財レスキューについても紹介していました。資料をなるべく傷めずに元の状態に戻すためにフリーズドライが使われているなど、興味深かったです。各地から専門家が文化財レスキューに向かうものの、優先順位の問題もあり、なかなか難しいようです。
文化財レスキューを特集したテレビ番組が流れていたのですが、そこで印象的だったのは、「貝塚遺跡はほとんどが津波の被害を受けていなかった」ということです。昔の人たちは、「大津波が到達しないところ」を選んで住んでいたのですね。
伊東乾氏の「なぜ津波で洗われる地域に家を作ったのか? あれから1年、正しく怖がる放射能【3】」にもあったのですが、三陸地域で人が平地に暮らすようになったのは、高度成長期のようです。全部の地域でこれが当てはまるかは分かりませんが……。
――と、あれこれ書きましたが、平城宮跡はまだまだ続きます(汗)