社会
July 26, 2011
「権威も批評にさらされる社会の到来」を政府もマスコミも無視している?
――というのが、先日の国際女性ビジネス会議の分科会で感じたことです。
分科会のテーマは「ソーシャルネットワークの可能性」で、講師は慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授のジョン・キム氏と、コミュニケーションディレクターのさとなおこと佐藤 尚之氏でした。
ジョン・キム氏によると、大学の授業で学生がノートPCを持ち込み、授業中に言及したデータが正しくないと、指摘されるそうです(ノートPCを持ち込む学生は、三田ではごく少数で、SFCでは過半数だそうです)。つまり、権威もその発言内容を精査され、間違いがあったら容赦なく批判される、ということでした。
これは大学の授業に限らず、役所や政府・マスコミの発表でも、同じことだと思います。インターネット、特にいつでも接続できるブロードバンドの普及により、そういうオフィシャルな発表に使われるデータや背景へのアクセスが、一般市民にも容易になりました。大手メディアに所属する記者など、特定の(特権的な?)職業に属さなくても、それなりの調査ができます。
そのため、10年ほど前のようには、「役所や政府が言っていることは正しい」「マスコミの発表はオフィシャルなもので、事実に基づく公正なものだ」という無条件での信頼は得られなくなっています。逆に、この世の中で無邪気にそのように考えている人がいるとすれば、いわゆる「情報弱者」か「自分で何も考えない人」か、というところでしょう。私は恵まれた条件にいるので気づいていないだけで、そういう人は意外と多いのかもしれませんが……。
――でも、そのことに、当事者が気づいていないのではないでしょうか。いつまで経っても、何十年も続けてきたやり方が通用すると思っているのではないか、という感じがします。
「正しい情報・必要な情報だから政府やマスコミの発表を信じる」のであって、「政府やマスコミの発表だから内容が正しい」ではない、ということを、私たちも意識しなければならない、と思いました。
分科会のテーマは「ソーシャルネットワークの可能性」で、講師は慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授のジョン・キム氏と、コミュニケーションディレクターのさとなおこと佐藤 尚之氏でした。
ジョン・キム氏によると、大学の授業で学生がノートPCを持ち込み、授業中に言及したデータが正しくないと、指摘されるそうです(ノートPCを持ち込む学生は、三田ではごく少数で、SFCでは過半数だそうです)。つまり、権威もその発言内容を精査され、間違いがあったら容赦なく批判される、ということでした。
これは大学の授業に限らず、役所や政府・マスコミの発表でも、同じことだと思います。インターネット、特にいつでも接続できるブロードバンドの普及により、そういうオフィシャルな発表に使われるデータや背景へのアクセスが、一般市民にも容易になりました。大手メディアに所属する記者など、特定の(特権的な?)職業に属さなくても、それなりの調査ができます。
そのため、10年ほど前のようには、「役所や政府が言っていることは正しい」「マスコミの発表はオフィシャルなもので、事実に基づく公正なものだ」という無条件での信頼は得られなくなっています。逆に、この世の中で無邪気にそのように考えている人がいるとすれば、いわゆる「情報弱者」か「自分で何も考えない人」か、というところでしょう。私は恵まれた条件にいるので気づいていないだけで、そういう人は意外と多いのかもしれませんが……。
――でも、そのことに、当事者が気づいていないのではないでしょうか。いつまで経っても、何十年も続けてきたやり方が通用すると思っているのではないか、という感じがします。
「正しい情報・必要な情報だから政府やマスコミの発表を信じる」のであって、「政府やマスコミの発表だから内容が正しい」ではない、ということを、私たちも意識しなければならない、と思いました。
February 07, 2011
科学技術の発展や西洋文化の導入は、幸福をもたらすのか?
仕事をしながらだったのでしっかり見ていたわけではないのですが、佐久間ダム建設に関する記録映画(時代からして、映画だと思います……)が、ヒストリーチャンネルで放送されていました。最新の技術を用いたダムによって、(恐らく立ち退きなどがあったと思いますが)暮らしが便利になる、という話だったと思います。
この時代(昭和20〜30年代)だと、そういう観点で制作されていても、何の疑問もありません。おそらくダムがなければ、洪水や農業用水・工業用水の確保など、問題があったのではないかと思うのです。
でも、今回ちらりと見かけた映像の話に限らず、それまで何百年もの間営まれていた人々の暮らしや自然とのつながりを断ち切ることが、本当によいことなのかは、簡単には結論が出せないなあ、と感じるところもあります。
これは、2010年代になって、これまでの道のりを振り返ってみると、
「私たちは、過去の日本の文化や技術を古く劣っているものと考え、西洋の文化や技術を新しく優れているものと考え、積極的に前者を排し、後者を受け入れてきた。でも果たして、そうすることで私たちは幸せになっているのか?」
という疑問が(少なくとも私の中に)生まれているからに他ならないでしょう。
そして、そういう疑問が生じるということは、「そんなに幸せと言える状態ではないのでは」と感じているということではないでしょうか。
今さら私がこうやって書く話でもありませんが、現状に違和感を覚える人が多いのではないかと思います。確かに今は、何の憂いもない幸せな状態とは言えません。では、西洋からもたらされたものを積極的に受け入れなかったらどうなっていたのだろう、と思うと、それも恐らく手放しで受け入れられる状態ではないのでは、ということも、同時に思うのです。
簡単に結論が出せる問題ではありませんが、「何かが違う」という感覚を少しでも和らげることができるように、そのために何ができるかを、考えていきたいと思いました。
この時代(昭和20〜30年代)だと、そういう観点で制作されていても、何の疑問もありません。おそらくダムがなければ、洪水や農業用水・工業用水の確保など、問題があったのではないかと思うのです。
でも、今回ちらりと見かけた映像の話に限らず、それまで何百年もの間営まれていた人々の暮らしや自然とのつながりを断ち切ることが、本当によいことなのかは、簡単には結論が出せないなあ、と感じるところもあります。
これは、2010年代になって、これまでの道のりを振り返ってみると、
「私たちは、過去の日本の文化や技術を古く劣っているものと考え、西洋の文化や技術を新しく優れているものと考え、積極的に前者を排し、後者を受け入れてきた。でも果たして、そうすることで私たちは幸せになっているのか?」
という疑問が(少なくとも私の中に)生まれているからに他ならないでしょう。
そして、そういう疑問が生じるということは、「そんなに幸せと言える状態ではないのでは」と感じているということではないでしょうか。
今さら私がこうやって書く話でもありませんが、現状に違和感を覚える人が多いのではないかと思います。確かに今は、何の憂いもない幸せな状態とは言えません。では、西洋からもたらされたものを積極的に受け入れなかったらどうなっていたのだろう、と思うと、それも恐らく手放しで受け入れられる状態ではないのでは、ということも、同時に思うのです。
簡単に結論が出せる問題ではありませんが、「何かが違う」という感覚を少しでも和らげることができるように、そのために何ができるかを、考えていきたいと思いました。