講演会

June 29, 2013

* フォーラム・台所は誰のものか?−−『ナチスのキッチン』が切り拓く地平(第29回 日本ドイツ学会総会・シンポジウム)

――1週間前の話なのですが、ようやくまとめて書いています。とは言っても、内容が盛りだくさんなので、2度に分けて書こうかと。前回も書きましたが、日本ドイツ学会のホームページはこちらです。

午前のフォーラムは、タイトルのものを選びました。午後のシンポジウムに比べれば、開催時間は2時間と短いものでしたが、凝縮した内容のものでした。
  1. 『ナチスのキッチン』前後 藤原辰史 (京都大学准教授)
    『ナチスのキッチン』は、近代ドイツの台所の合理化過程を、建築、台所道具、家政学、レシピなど、さまざまな観点から論じたものである。この概略を説明したあと、今後の課題と展望について、これまでの書評を参考にしながら考えたい。
  2. 日本女性史におけるドイツのキュッヘ 北川圭子(北海道工業大学客員教授)
    戦後,建築家たちは挙って民主的住宅を模索し、台所空間の改革を提案した。その先鋒が浜口ミホである。ミホは、その範をドイツのWohn Kucheに求めた。DKと命名されたこの空間は、若い世代の人気の的となり、わが国の住生活を一変させ,延いては女性の地位向上の象徴となった。また、住空間に生活最小限住宅追究という科学的視点も 導入させた。しかし,DK のルーツがWohn Kucheであることは歴史の闇に埋もれた。
  3. 戦時下日本とドイツの花嫁学校研究 - 日本の新聞・雑誌の記事を中心として 伊藤 めぐみ(早稲田大学 東洋英和女学院大学非常勤講師)
    ‘本において、1930年代に入り設立されていく花嫁学校の展開過程と特質を三期に分けて報告する。▲疋ぅ弔硫峅燃惺擦よび母親学校の概要を当時日本で出された新聞・雑誌の記事を中心に報告するとともにそれらの記事から、上記の機関が当時どのような関心を持たれ、受け止められていたのかを考察したい。
実はこの『ナチスのキッチン』そのものについては未読の状態で行ったのですが、それでも非常に興味深い内容でした。「『ナチスのキッチン』前後」では、このフォーラムの導入という感じで、出版後の反響やそこから見えてきた課題について、説明していました。これだけ話題になるということは、それだけ切り口が斬新だったのだろうなあ、と思います(未読なものでこの程度の感想ですみません)。書籍が購入できるコーナーもあってので、もしかしたら「著者のサイン入り」にできたのかもしれませんが、財政能力が欠けているため断念しました。がくり。

以降は、ドイツ以外の専門分野の研究者が、『ナチスのキッチン』と関連する内容の発表をします。

次は、「日本女性史におけるドイツのキュッヘ」です。戦後の公団住宅におけるDK(ダイニングキッチン)の誕生に、日本の女性建築家第一号の浜口ミホが大きくかかわっており、彼女の発想のルーツはドイツのWohnkücheにあったということでした。戦前の建築家の視線は上流社会に向かっていました。庶民の住宅への関心は低かったため、「生活最小限住宅」という発想が顧みられることはなかったようです。戦後に建築や女性を取り巻く状況が変化し、庶民の住宅に変化がもたらされたそうです。

ダイニング・キッチンはこうして誕生した―女性建築家第一号浜口ミホが目指したもの (はなしシリーズ)ダイニング・キッチンはこうして誕生した―女性建築家第一号浜口ミホが目指したもの (はなしシリーズ) [単行本]
著者:北川 圭子
出版:技報堂出版
(2002-01)

スピーカーの著書なのですが、お話をうかがった後だと、とても気になります。

その次が、「戦時下日本とドイツの花嫁学校研究 - 日本の新聞・雑誌の記事を中心として」です。高等女学校を初めとする女子教育機関が、良妻賢母教育に十分な効果をあげていないということで、「花嫁養成を直接目的とする」1932年に設立された「御茶の水女子家庭寮」が、いわゆる「花嫁学校」の嚆矢だそうです。そして、日本の花嫁学校を参考に、当時のドイツでも花嫁学校や母親学校というような組織が作られたらしい、ということでした。本当に影響を受けていたのかは分からないのですが、同じ時期に同じような目的で、教育機関が作られています。

でも、日本とドイツで、別々の形で展開していくところがとても興味深く感じられました。ドイツでは労働者の多い地区に最初に作られ、親衛隊員と結婚するには党の花嫁学校を卒業しなければならないくらいだったそうです。一方で、勤労動員が必要になった日本では、都市部の花嫁学校は不要不急のものとしてとらえられるようになり、閉鎖された学校もあったようです。この種の学校は、ドイツでは社会福祉の面が強く、日本では「余裕のある家庭の娘の習い事」という感じになったように思います。

日本とドイツの比較というより、「今も昔も、どうして日本だと目標から離れたところに着地するのだろう」というのが、とても印象的な内容でした。そして、女性手帳を花嫁学校と同じと批判する人たちがそう感じる理由が、はっきりと、とは言えませんが、根っこにあるものが同じなのだろうなあ、というのはぼんやりと感じられました。

ほどよく記憶が薄れているので詳しくは書けませんでしたが(そもそも有料で参加するものなので、ここにあれこれ書くわけにもいきません)、非常に興味深いものでした。

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June 20, 2013

* 日本ドイツ学会総会・シンポジウムのテーマが気になります

偶然見かけたポスターに気になるテーマが書かれていたので、帰宅後に検索して見つけました。昔だったら、ポスターの内容をメモして……となったのでしょうね。便利な世の中になりました。
第29回 日本ドイツ学会総会・シンポジウム「領土とナショナリティー 」(日本ドイツ学会のサイトはこちら
開催日:
2013年6月22日(土)
会場:
お茶の水女子大学 共通講義棟2号館
参加費:
一般 1000円 学生 500円、 日本ドイツ学会会員 無料
当日受付可。 どなたでもご参加いただけます。
このタイトルだけでも気になって検索してみたのですが、それ以外も魅力的な内容でした。午前はフォーラム、午後はシンポジウムという構成です。
フォーラム
  1. 台所は誰のものか?−−『ナチスのキッチン』が切り拓く地平
  2. ポスト脱原発を展望する――原子力施設拒絶地域/立地地域の「その後」から
午前のフォーラムは、1のほうが気になります。『ナチスのキッチン』の内容にとどまらず、当時のドイツや日本の女性が置かれた立場を考えるものになっています。そして午後のシンポジウムは、このような内容です。正しい書き方かは分かりませんが、午前のフォーラムも、発表者は省略しました。
シンポジウム 「領土とナショナリティー」
  1. 領土と国益——ドイツ東方国境紛争から日本を展望する
  2. 失われた東部領/回復された西部領――ドイツ・ポーランドの領土とオーデル・ナイセ国境
  3. 多民族国家の解体と「ドイツ人」意識の変容 ―両次大戦間期ルーマニアにおけるユダヤ系およびドイツ系ドイツ語話者を事例に―
  4. 領土と国籍・市民権−「ナショナルなもの」を考える
  5. ヘルゴラント島と竹島/独島 ⎯ 日独比較の観点から
実は中世好きな私は、学生時代に近現代のドイツには積極的には触れてきませんでした。でも仕事で第二次世界大戦がらみのものは避けられず、こういう分野にも関心を持つようになりました。

そんなわけで、会場に出没しているかもしれません。

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May 27, 2013

* 三森ゆりか氏講演会「言葉の力」―これからの日本に必要な言語教育@ASF

この週末は、2年ぶりにオールソフィアンの集い(All Sophians' Festival, ASF)に参加しました。あちこち参加したいとは思ったのですが、諸般の事情により、しっかりと参加できたのはこの講演会と、学科の同窓会(同期入学のみの集まり)だけでした。興味深い企画は、あれこれあったのですけれど。

ともあれ今回は、この講演会について書きます。

実は私は、今回のテーマに非常に興味を持ったことがありました。それっていつだっけ、と思って調べたら(こういうときに、たまーに、であっても、ブログを書き続けていたことが役立ちます)、なんと2006年のことでした。もう7年前になるのですね。

そのとき書いたのがこちら。結局「行動したい」と思ったにもかかわらず、何もしなかったというか、できなかったようです。たぶん、息子の小学校入学もあり、仕事が忙しくなったこともあり、具体的に動く余裕がなくなったのでしょう。

このとき書いた、「外国語以前に、母語である日本語で、きちんと自分の意見や感じたことを表現したり、相手の意図を読み取ったりする訓練をするべき」というのは、今も思っています。

当時、こういうことを学ぶにはどうすればいいかということを調べてたどりついたのが、「読書へのアニマシオン(こちらのサイトで説明されています)」と、今回の「言語技術」でした。どちらが先か忘れてしまったのですが、「フィンランドメソッド」も関連する書籍を読んで調べました。

いろいろと調べてみた結果、「ああ、私がやらなくても、他にやっている人がいるんだ」と思ったので、「よし、やるぞっ!」という勢いで、ぶわーっとふくらんでいたモチベーションが、「なーんだ」と、きゅーっと縮んだのではないかとも思います(汗)

今回の公演は、時間が限られていることもあり、概要にさっと触れ、後半のワークショップは参加者が考えるというよりも、模擬授業をさっと流す、程度のものでした。でも、十分にエッセンスは感じられます。

これから書くことは、講演会の内容だけでなく、私自身がこれまで考えてきたことも含めたものになりますので、その点ご承知おきください。

「暗黙の了解」「お約束」的に理解されていることを共有できない相手は、外国人だけでなく、同じ日本語を母語とする人にもいます。以前であれば、そういう人は「空気が読めない」「分からない」で切り捨てていけばよかったのでしょうが、現在はそういう状態ではありません。

だとしたら、日本のこれまでの文化の中で使われてきた日本語と比較すると不自然に聞こえるかもしれませんが、「相手にはっきりと分かりやすく伝える技術」というのは必要になるでしょう。そして、この手法を英語(に限らず、他の外国語)でも適用すれば、「コミュニケーションの齟齬」というものは起こりにくくなるのです。その原因は、英語の発音の流暢さでなく、「どのように伝えるか」の差なのです。

三森さんが各国の教科書や学習内容を調べた結果、欧州・ロシア・北米・南米・アフリカ・中近東・オセアニア・アジア各国、ともかくほとんどの国で、同じ内容が小学校から系統だてて教えられていました。それが、レトリック(修辞学)やクリティカル・リーディング(分析的に鑑賞する手法)です。話題になったフィンランドメソッドも、実はフィンランドだけでやっているというものではなく、各国で行われていました。

私も含め、ある程度の年齢になってからの留学で、授業についていけないという経験をした人は多いでしょう。これは、日本では、しっかりした論文の書き方や議論の手法を教えられてこなかった、ということが大きいのです。外国語ができないのが問題ではなく、こういう分析手法の基礎が身についていないのが問題でした。

それをどうやって身に付けるか、ということで、難しい文章を読む読解力のない段階では、絵(写真)を分析することから始まります。そこから絵本、文章、と進むのです。こういう分析の手法はあらゆる学問の基礎になります。理系の学問はもとより、音楽のアナリーゼも、素材が文章から音楽に変わるだけなのだそうです。

本を読んだだけでは分からなかったことも、実際にワークショップで体験してみて、「こういう感じなのか」と思いました。そして、これを経験しているかいないかでは、違いが大きいと思いました。

日本ではよくある「なんとなく」「分からない」は、こういう教育を行う場では通用しません。自分が何を考えているか、何が分かってどこから分からないかは、きちんと言語化できなければいけないのです。

また、文章や絵を多角的な視点から見ることも学びます。三人称で書かれた物語を、ある特定の人物の視点から見た場合はどうなるか。また逆に、一人称で書かれた物語を、他の人物の視点から見た場合はどうなるか。誰が何を知っていてどう行動し、誰はどの人物のどんな行動を知らないか、という分析が求められます。

突拍子もない発展に聞こえるかもしれませんが、こういう分析は、恐らく「自分は何ものか」という認識にもつながると思います。誰の意見にもどんな出来事にも左右されない、「自分」という存在を意識するのです。

やっぱり、こういうことはきちんと考えなければいけないなあ、と思いました。こういうことを教える教室を開きたいという夢があったなあ、と思い出しつつ、では今の自分にそういうことをする余裕はあるのか、と思いつつ、講演会の会場を後にしました。
三森ゆりかさんが所長を務められています。
そして今日、このような記事を目にしました。
実は、グローバル化とはハイコンテクストな社会が、ローコンテクストな社会に転換していく過程の一環なのです。国内でさえ、世代や趣味が違うと「話が通じない」関係が増えていますね。そこに、外国から様々な価値観を持った人々が参入してくるわけです。

イマドキの若者であれ、海外出身者であれ、職場や教室にコンテクストを共有していない人が現れると、“空気読め”では通じない。そのとき必要となるのが「教養」です。この教養とは、単なる知識や語学力ではなく、「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する能力」のことです。
……ということで、結局は問題の根源は一緒、なのです。

立て続けにこういうものを見聞きするというのは、すごい偶然です。何かあるのかも、ですね。

uriel_archangel at 15:17 | 講演会・展覧会 | 学び
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