languagearts

May 27, 2013

* 三森ゆりか氏講演会「言葉の力」―これからの日本に必要な言語教育@ASF

この週末は、2年ぶりにオールソフィアンの集い(All Sophians' Festival, ASF)に参加しました。あちこち参加したいとは思ったのですが、諸般の事情により、しっかりと参加できたのはこの講演会と、学科の同窓会(同期入学のみの集まり)だけでした。興味深い企画は、あれこれあったのですけれど。

ともあれ今回は、この講演会について書きます。

実は私は、今回のテーマに非常に興味を持ったことがありました。それっていつだっけ、と思って調べたら(こういうときに、たまーに、であっても、ブログを書き続けていたことが役立ちます)、なんと2006年のことでした。もう7年前になるのですね。

そのとき書いたのがこちら。結局「行動したい」と思ったにもかかわらず、何もしなかったというか、できなかったようです。たぶん、息子の小学校入学もあり、仕事が忙しくなったこともあり、具体的に動く余裕がなくなったのでしょう。

このとき書いた、「外国語以前に、母語である日本語で、きちんと自分の意見や感じたことを表現したり、相手の意図を読み取ったりする訓練をするべき」というのは、今も思っています。

当時、こういうことを学ぶにはどうすればいいかということを調べてたどりついたのが、「読書へのアニマシオン(こちらのサイトで説明されています)」と、今回の「言語技術」でした。どちらが先か忘れてしまったのですが、「フィンランドメソッド」も関連する書籍を読んで調べました。

いろいろと調べてみた結果、「ああ、私がやらなくても、他にやっている人がいるんだ」と思ったので、「よし、やるぞっ!」という勢いで、ぶわーっとふくらんでいたモチベーションが、「なーんだ」と、きゅーっと縮んだのではないかとも思います(汗)

今回の公演は、時間が限られていることもあり、概要にさっと触れ、後半のワークショップは参加者が考えるというよりも、模擬授業をさっと流す、程度のものでした。でも、十分にエッセンスは感じられます。

これから書くことは、講演会の内容だけでなく、私自身がこれまで考えてきたことも含めたものになりますので、その点ご承知おきください。

「暗黙の了解」「お約束」的に理解されていることを共有できない相手は、外国人だけでなく、同じ日本語を母語とする人にもいます。以前であれば、そういう人は「空気が読めない」「分からない」で切り捨てていけばよかったのでしょうが、現在はそういう状態ではありません。

だとしたら、日本のこれまでの文化の中で使われてきた日本語と比較すると不自然に聞こえるかもしれませんが、「相手にはっきりと分かりやすく伝える技術」というのは必要になるでしょう。そして、この手法を英語(に限らず、他の外国語)でも適用すれば、「コミュニケーションの齟齬」というものは起こりにくくなるのです。その原因は、英語の発音の流暢さでなく、「どのように伝えるか」の差なのです。

三森さんが各国の教科書や学習内容を調べた結果、欧州・ロシア・北米・南米・アフリカ・中近東・オセアニア・アジア各国、ともかくほとんどの国で、同じ内容が小学校から系統だてて教えられていました。それが、レトリック(修辞学)やクリティカル・リーディング(分析的に鑑賞する手法)です。話題になったフィンランドメソッドも、実はフィンランドだけでやっているというものではなく、各国で行われていました。

私も含め、ある程度の年齢になってからの留学で、授業についていけないという経験をした人は多いでしょう。これは、日本では、しっかりした論文の書き方や議論の手法を教えられてこなかった、ということが大きいのです。外国語ができないのが問題ではなく、こういう分析手法の基礎が身についていないのが問題でした。

それをどうやって身に付けるか、ということで、難しい文章を読む読解力のない段階では、絵(写真)を分析することから始まります。そこから絵本、文章、と進むのです。こういう分析の手法はあらゆる学問の基礎になります。理系の学問はもとより、音楽のアナリーゼも、素材が文章から音楽に変わるだけなのだそうです。

本を読んだだけでは分からなかったことも、実際にワークショップで体験してみて、「こういう感じなのか」と思いました。そして、これを経験しているかいないかでは、違いが大きいと思いました。

日本ではよくある「なんとなく」「分からない」は、こういう教育を行う場では通用しません。自分が何を考えているか、何が分かってどこから分からないかは、きちんと言語化できなければいけないのです。

また、文章や絵を多角的な視点から見ることも学びます。三人称で書かれた物語を、ある特定の人物の視点から見た場合はどうなるか。また逆に、一人称で書かれた物語を、他の人物の視点から見た場合はどうなるか。誰が何を知っていてどう行動し、誰はどの人物のどんな行動を知らないか、という分析が求められます。

突拍子もない発展に聞こえるかもしれませんが、こういう分析は、恐らく「自分は何ものか」という認識にもつながると思います。誰の意見にもどんな出来事にも左右されない、「自分」という存在を意識するのです。

やっぱり、こういうことはきちんと考えなければいけないなあ、と思いました。こういうことを教える教室を開きたいという夢があったなあ、と思い出しつつ、では今の自分にそういうことをする余裕はあるのか、と思いつつ、講演会の会場を後にしました。
三森ゆりかさんが所長を務められています。
そして今日、このような記事を目にしました。
実は、グローバル化とはハイコンテクストな社会が、ローコンテクストな社会に転換していく過程の一環なのです。国内でさえ、世代や趣味が違うと「話が通じない」関係が増えていますね。そこに、外国から様々な価値観を持った人々が参入してくるわけです。

イマドキの若者であれ、海外出身者であれ、職場や教室にコンテクストを共有していない人が現れると、“空気読め”では通じない。そのとき必要となるのが「教養」です。この教養とは、単なる知識や語学力ではなく、「ハイコンテクストなものをローコンテクストに翻訳する能力」のことです。
……ということで、結局は問題の根源は一緒、なのです。

立て続けにこういうものを見聞きするというのは、すごい偶然です。何かあるのかも、ですね。

uriel_archangel at 15:17 | 講演会・展覧会 | 学び
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